念仏宗無量寿寺で聞いた「無常」の意味

「無常」って聞いたことありますよね?
普段は急に不幸なことがあったり、主に悪い意味で思いもしなかったことが起きた時に使われますよね。
古くは、「平家物語」の中で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」と書き出され、我々の一生の短いことを儚いという意味で使われています。
しかし先日、佛教之王堂のある念仏宗無量寿寺に行った際に、これまでとはちょっと違う意味のことだと教えてもらい、なるほど確かにと思いました。
それは、何も無い、虚無と言うことではなく、世の中全ては「無常」の字のごとく、「常では無い」と言うことだそうです。念仏宗無量寿寺の方からこの話しを聞いたとき、何となく解ったような、解らないような感じの顔をしていたら、「にこっ」として、詳しくえてくれました。

まず、条件次第でその結果が変わるということ。佛教では、全ての出来事や、存在には必ずそうなる原因があると言われています。
しかし、途中の条件が異なれば、それを佛教では「縁」と言うと念仏宗無量寿寺の方は言っていましたが、結果は異なってくるそうです。つまり、結果には必ず原因があるが、縁によってはその結果がことなるということです。例えばお米も、条件を変えれば、普段食べているご飯がお粥にもなるし、餅にもなる、白いご飯も、小豆を入れれば赤飯、栗を入れれば栗ご飯と言った具合に異なるものになる。

場合よっては、焼けば煎餅とまったく想像もつかないものに変化してしまうのである。
 次に、念仏宗無量寿寺の方は、この世のものは元には戻らないということを教えてくれました。
例えば、飾ってあった茶碗を誤って床に落としたと考えてください。どう瞬間接着剤でくっつけても、元には戻りません。
地震で崩れた建物も建て直す事はできても、元とまったく同じビルを建築することはできませんよね。
そう念仏宗無量寿寺の方が言われるのを聞いて、人と人との人間関係もきっとそうなのだろうなって思いました。
 そして最後に、「常」つまり「永遠なるもの」はこの世には存在しないと言うこと。

この地球、我々人間も必ず過去から未来に時間が流れています。
そして、自分も細胞と言う物理的にも、気持ちと言う精神的な面も常に変化していますし、どんなに頑丈な建物でも必ず、朽ちてきます。
この地球さえも常にマントルが動いて我々の立っている大地もとどまってはいないのです。
ずっと昔、海の中だったところも今では何千メートル級の山岳にもなってしまうのです。
このように念仏宗無量寿寺の方は解り易く具体例を出して教えてくれました。
今まで知っていた無常と言う言葉の深い意味がわかった気がしました。
最後に、そのことを説かれたお釈迦様は、亡くなられる際に、このような無常のことを弟子たちに常に忘れさせないために、こう言われたと念仏宗の方は言いました。

「全てのものは移ろい行く、怠り無く精進せよ」 

我々は、いかに無知(それを佛教では無明と言うそうですが)かを自覚し、移り変わる全ての事象を智恵の目で物事(真理・真実)を捉えなさい、そのためには精進、つまり実践をし続けなさいと言う事を遺言として言われたと教えてもらいました。念仏宗無量寿寺の方には今回もとても生きていく上で大切なことを毎回習っている気がします。