仏教は知っていた宇宙の年齢・宇宙の大きさ(仏教の不思議) 

念仏宗無量寿寺(念佛宗)で聞いたこと

この前、念仏宗無量寿寺(念佛宗)の方から聞いた数の単位の話をしましたが、雑誌を読んでいたら、こんな興味深いことが書かれていました。

それは、未だに宇宙って膨張していて、しかも加速度的にその膨張スピードは増しているそうです。

1.宇宙の年齢とお釈迦様の仏教の不思議

さすがにそんなことまで、お釈迦様は仏教において考えもしていなかっただろうと思い、念仏宗無量寿寺(念佛宗)の方に聞いてみました。

そしたら、こんなことを言われました。

「現在言われている宇宙の年齢って知ってる?」

そこで、自分は、「137億年でしょ?」で答えたら、

「じゃあ、その宇宙の年齢をお釈迦様は知っていたと思う?」と返って来てしまいました。

これは、「また雲行き怪しい展開になる?」 なんてことを考えながら、
「時間が長すぎて想像もつかなかったんじゃないかな?」と言うと、

念仏宗無量寿寺(念佛宗)の方は、「でも137億年で137×10の8乗年。前回話した、お釈迦様が言われた数字の単位を思い出してもらうと、10の68乗の無量大数まであったよね?」と言われました。

続けて、「ここまでの数字の単位を残されたのだから、何か意味があったと思わない?」

と、念仏宗無量寿寺(念佛宗)の方は言われました。

と言うことは、お釈迦様は宇宙の寿命ももしかして知っていたのでは?と思いました。
そして、膨張している宇宙の歳を現在はまだ億の単位でしか表していないということは・・・・なんてことを考えていました。

仏教の不思議が始まったと思いました。

2.宇宙の大きさとお釈迦様の仏教の不思議

家に帰ってから、今度はいま言われている宇宙の大きさも調べてみようと思い計算すると、京(ケイ)のひとつ上の垓(ガイ)の単位で表されてしまうことがわかり、一層愕然となりました。

そして、念仏宗無量寿寺(念佛宗)の方が話していたお釈迦様ってどれだけ凄いかが少し理解できた気がしました。まるで、西遊記の孫悟空が觔斗雲ではるか遠くまで行ったつもりでも、結局は仏様の手のひらの上で飛んでいたのと同じだと感じました。

3.やっぱり仏教って不思議

いま一生懸命、科学が宇宙やこの世の中の理を発見したり証明したりしていますが、実はもう2500年前にお釈迦様がそれを見つけていたのでは?とも思いました。

ただ、当時はまだ表現する言葉がなかったこと、それを一生懸命言っても誰も理解できないし生活する上でも全く意味がなかったから、経典には「この世の中はこうだ!」と書いてあるものの、だれも気にもしなかったのだろうと思い、そのまま念仏宗無量寿寺の方に質問をしたら、
「その通り、よくそこまで考えられたね、と言われました。弟子の方もきっと想像も理解もできなかったと思うけど、よく我々の時代にまで正しく伝え続けられたよね。」と言われました。

私も、全くそうだ! 奇跡的なことだなぁと思いました。

そんなことを思いながらボーっとしていたら、念仏宗無量寿寺(念佛宗)のかたは、

笑って、「それが仏事だよ!」 と言って笑って去っていきました。

仏教って本当に不思議な宗教だなって改めて思いました。

仏教での数字の世界観と情報社会の数字の世界観(仏教の不思議)

念仏宗無量寿寺(念佛宗)で聞いたこと

1.念仏宗無量寿寺(念佛宗)で聞いた仏教における数字の世界観
このまえ、念仏宗無量寿寺(念佛宗)で聞いた話です。お釈迦様は2500年前に数の単位を用いて仏教の奥深さと、我々のこれまで為してきた罪の深さを弟子や信者に説かれたそうです。
お寺の方は、経典にその数の単位が書かれているよと言われました。

後で、インターネットでも調べてみると、まったく想像もつかない数字の単位があることを知りました。
お釈迦様は、数字には次の表現の単位があると説かれています。

1…………  一    (いち)
10………  十    (じゅう)
10の2乗… 百    (ひゃく)
10の3乗… 千    (せん)
10の4乗… 万    (まん)
10の8乗… 億    (おく)
10の12乗 兆    (ちょう)
10の16乗 京    (けい)
10の20乗 垓    (がい)
10の24乗 秭    (じょ)
10の28乗 穣    (じょう)
10の32乗 溝    (こう)
10の36乗 澗    (かん)
10の40乗 正    (せい)
10の44乗 載    (さい)
10の48乗 極    (ごく)
10の52乗 恒河沙  (ごうがしゃ)
10の56乗 阿僧祇  (あそうぎ)
10の60乗 那由多  (なゆた)
10の64乗 不可思議 (ふかしぎ)
10の68乗 無量大数(むりょうたいすう)

 とても想像もつかない単位です。

2.情報社会の数字の世界観 念仏宗無量寿寺(念佛宗)で聞いた話で感じたこと

現代の情報社会におけるコンピューターの数字の世界観では、ビッグデーターという言葉がいまや流行っていますが、個人レベルでは一般的にギガの数字、これでやっと10の9乗です。
もっと大きなサーバーとかストレージを扱う大企業レベルでやっとペタの数字、10の15乗といった程度。全世界にあるデーターをかき集めても、現在ではまだ、10の18乗(エクサ) 10の21乗(ゼッタ)という単位にしかならないようです。最近では、近未来を想定して、10の24乗(ヨタ)という数字がようやく登場して来た程度。

10の68乗なんて、いつになったらコンピューターの世界で登場してくるのでしょうかね?
コンピューターの世界で、ビッグデーターと最近盛んに言われていますが、もしお釈迦様が生きていたら、この状況を見てきっと笑われるでしょうね。ほとんどの人間はなんと小さい世界でいまだ生活しているのか? そんな狭い範囲しか見ることが出来ていないのでは、まだまだお釈迦様が悟りとして到達したレベルには程遠いと、嘆かれるかもしれません。

30年ほど前までは、まだ地球にはやっとテラの単位(10の12乗)の量の情報が存在し始めたのに、たった数十年で倍近くまで情報の量が増えたことは、ものすごいことだと思いますが、念仏宗無量寿寺(念佛宗)の方に聞いた仏教の世界観はまさに恐るべし!と思いました。

逆に現代の21世紀なるまでは、この地球は非常に時間の流れるのが遅かったのだということだと感じました。そして、これからは、加速度的にこの世界も情報量の伸びとともに、数字の対する感覚がめまぐるしく変化するのだろうと思います。仏教のお話を聞きに来て、こんな話しにまで自分の頭の中で発展するなんて思ってもいませんでした。念仏宗無量寿寺(念佛宗)で聞く話しは、自分の想像力を掻き立て楽しくしてくれますね。

仏教の日

仏教の日4月8日は、いよいよ今週です。仏教の日 VTR

この仏教の日は、念佛宗(念仏宗無量寿寺)が、第六回仏教サミットで制定されたものだと、佛教之王堂で念仏宗無量寿寺の方から聞きました。
これは一昨年の第六回佛教サミットでお釈迦様 御生誕の日  4 月 8 日を「仏教の日」と制定することを全世界五大陸41 ヶ国の仏教最高指導が満場一致で決議されたものだそうです。これは、世界三大宗教と言われるキリスト教にもイスラム教にも、全世界統一の生誕祭があるのに、仏教だけ生誕祭は国によってバラバラで統一の生誕をお祝いする日がなかったため、釈尊の原点に返れと提唱している念仏宗無量寿寺が、全世界同じ日にお釈迦様の生誕のお祝いと、我々が今こうしてあることに対する感謝の気持ちをこめて、益々仏教を興隆させていこうという主旨で、制定されたようです。

昨年、第一回の仏教の日が開催され、日本では外国人の方も含めて12万人の人たちが念仏宗無量寿寺の佛教之王堂へお祝いと参詣に行かれました。また。カンボジアやタイをはじめ、佛教サミットで賛同された全世界5大陸の日本以外の国々でも、盛大にお釈迦様の生誕を祝い、全世界5億1千万人の仏教徒が、同じ誕生仏のもと、催しが執り行われました。
中でも、念仏宗無量寿寺の佛教之王堂で行われる僧侶のお練りと、400人を超える稚児のお練りは、参詣に来た方に、感動を与えました。まず41ケ国の国旗が掲げられた列が先導し、僧侶・稚児と続き、1.2kmの参道を練り歩いたそうです。
一番上の釈迦堂の前では、念仏宗無量寿寺のお坊さんによって灌仏式と灌頂式が行われました。灌仏式とは像に乗ったお釈迦様の誕生仏にひしゃくでくみ取った水をかけて生誕を祝うことで、灌頂式とは僧侶が手でお水を参列者の頭上につけることだそうです。

「仏説浴像功徳経」と言うお経の一説で灌仏式と灌頂式は、以下のように説明されています。
“我今爲汝説浴像法。諸供養中最爲殊勝。(この浴像の法は、供養の中でも最も勝れたもの)”
“其浴像者。各取少許洗像之水。置自頭上・・・以爲供養。(その浴像した水を取って、頭上に戴くが良い)”

この両方を行うことは、大変な功徳があるとされています。
灌仏式は、一般的には花祭りや降誕祭として、子供のお釈迦様に甘茶をかけることで知られています。ただ、この灌頂式まで行うところは、少ないようです。灌頂とは、元々菩薩が最上の境地・仏の境地に入ろうとするとき,諸仏が智水を菩薩の頭に注ぎ,最上の位に達したことを認めることだそうです。日本では、今でも密教で受戒する時や修行僧がある地位以上に上るときに行っています。
 昨年の 念仏宗無量寿寺、佛教之王堂における仏教の日においては、灌頂式をして頂こうと、常時100人を超える人たちが列を作っていました。

お釈迦様は医者?

こんなことを言っている人がいました。

お釈迦様は、当時の民のお医者様的存在だった?
へぇ、面白いことを言う人がいると思って、話を詳しく聞いてみました。

残念ながら、今回は念仏宗無量寿寺の方の話ではなかったです。

医者は病気を治すが、お釈迦様は心の病を治すというと言う観点で、当時の医者でもあると言うのです。確かに、「病は気から」とも言いますし、実際自分も気持ちが病んでいて精神的に疲れているとき病気になったことがあります。

お釈迦様が残した教えに、先日念仏宗無量寿寺の方に教えてもらった「四諦」と言うものがあります。それはまさに医者が治療するときに使う手法と同じだと言うのです。仏教で悟りに至るまでの流れと実践を教えるのが「四諦八正道」というらしいですが、この中の「四諦」の流れに沿うように、医者も治療を進めると言われました。
病気の診断を行うのが「苦諦」、その病気が一体どこから来ているのか把握することが「集諦」、病気の原因を除けば治ると考えるのが「滅諦」、実際に治療を行って健康な状態に身体をもどすのが「道諦」ということだと言われました。

お釈迦様の教えは、まさに医者の診察と順序が同じだと。お釈迦様の教えの方法は、相手の状況に応じてお話の内容を難しくも易しくも変えて説くやり方をされていたそうだから、それを「対機説法」と言うそうです。この言葉は、念仏宗無量寿寺の方からも伺ったことがあるなと思いました。これを医薬の言葉に変えると「応病与薬」と言うらしいです。医者本来は、病の症状や段階に応じて医者は処方する薬を変えることから、こう言われるようです。

「十誦律」という仏教の戒律の条項を集めた61巻の経典によれば、お釈迦様は、「病気とは四大が増減するためにもろもろの苦しみを受けることである。」と言い、地・水・火・風の四大の不調和が病気の原因であると考えられていたそうである。その病気の種類は、風病、火病、水病、雑病の4つに分類し、それぞれに101種類合計404種類の病気が存在すると言われていた。そしてなんとその治療法まで考え付いていたそうで、風病は油脂、火病は酥(バター)、水病は蜂蜜、雑病は先ほどの3つを混ぜて治すことをされていたそうです。
そんな昔から、脂とバターと蜂蜜が存在していたことに驚くともに、仏教を広める上ではきっと規律正しい生活を行うことが基本と考えられていたため、修行するための環境づくりをしっかり行われていたのだろうと感じました。お釈迦様の意外な側面を知り、物事を本当にやり遂げるには、その事だけを行えば良いのではなくて、関連する全てのことに気を使うのものだと、改めて感じました。

そう言えば、念仏宗無量寿寺の方が日頃から、仏教は単なる宗教ではなく、医学にも科学にも文学にもあらゆる学問に通ずるところがあると言われている意味が少しわかった気がします。
仏教のことを大分判ったつもりでいましたが、まだまだ奥が深いと感じ、一層学ぶことが楽しみになってきました。

念仏宗無量寿寺で聞いた「無常」の意味

「無常」って聞いたことありますよね?
普段は急に不幸なことがあったり、主に悪い意味で思いもしなかったことが起きた時に使われますよね。
古くは、「平家物語」の中で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」と書き出され、我々の一生の短いことを儚いという意味で使われています。
しかし先日、佛教之王堂のある念仏宗無量寿寺に行った際に、これまでとはちょっと違う意味のことだと教えてもらい、なるほど確かにと思いました。
それは、何も無い、虚無と言うことではなく、世の中全ては「無常」の字のごとく、「常では無い」と言うことだそうです。念仏宗無量寿寺の方からこの話しを聞いたとき、何となく解ったような、解らないような感じの顔をしていたら、「にこっ」として、詳しくえてくれました。

まず、条件次第でその結果が変わるということ。佛教では、全ての出来事や、存在には必ずそうなる原因があると言われています。
しかし、途中の条件が異なれば、それを佛教では「縁」と言うと念仏宗無量寿寺の方は言っていましたが、結果は異なってくるそうです。つまり、結果には必ず原因があるが、縁によってはその結果がことなるということです。例えばお米も、条件を変えれば、普段食べているご飯がお粥にもなるし、餅にもなる、白いご飯も、小豆を入れれば赤飯、栗を入れれば栗ご飯と言った具合に異なるものになる。

場合よっては、焼けば煎餅とまったく想像もつかないものに変化してしまうのである。
 次に、念仏宗無量寿寺の方は、この世のものは元には戻らないということを教えてくれました。
例えば、飾ってあった茶碗を誤って床に落としたと考えてください。どう瞬間接着剤でくっつけても、元には戻りません。
地震で崩れた建物も建て直す事はできても、元とまったく同じビルを建築することはできませんよね。
そう念仏宗無量寿寺の方が言われるのを聞いて、人と人との人間関係もきっとそうなのだろうなって思いました。
 そして最後に、「常」つまり「永遠なるもの」はこの世には存在しないと言うこと。

この地球、我々人間も必ず過去から未来に時間が流れています。
そして、自分も細胞と言う物理的にも、気持ちと言う精神的な面も常に変化していますし、どんなに頑丈な建物でも必ず、朽ちてきます。
この地球さえも常にマントルが動いて我々の立っている大地もとどまってはいないのです。
ずっと昔、海の中だったところも今では何千メートル級の山岳にもなってしまうのです。
このように念仏宗無量寿寺の方は解り易く具体例を出して教えてくれました。
今まで知っていた無常と言う言葉の深い意味がわかった気がしました。
最後に、そのことを説かれたお釈迦様は、亡くなられる際に、このような無常のことを弟子たちに常に忘れさせないために、こう言われたと念仏宗の方は言いました。

「全てのものは移ろい行く、怠り無く精進せよ」 

我々は、いかに無知(それを佛教では無明と言うそうですが)かを自覚し、移り変わる全ての事象を智恵の目で物事(真理・真実)を捉えなさい、そのためには精進、つまり実践をし続けなさいと言う事を遺言として言われたと教えてもらいました。念仏宗無量寿寺の方には今回もとても生きていく上で大切なことを毎回習っている気がします。

お釈迦様が最後に残したもの (念仏宗無量寿寺で聞きました)

先日、念仏宗無量寿寺の佛教之王堂でお釈迦様のお話を聞きました。
最初は、最初に説法されたことでしたが、最後亡くなる時に、当時の弟子や現在の我々に何を残されようとしたかを教えて頂きました。
念仏宗無量寿寺の方が言われるには、お釈迦様は悟られてから45年間にわたってずっと、人々を教化しながらインド中を回られたそうです。
その中では、「生きているものは必ずいつかは死ぬ」と言うことだそうです。

これを念仏宗無量寿寺の方から聞いたとき、最初は聞き流して何も感じませんでしたが、何度か心の中でこの言葉を繰り返すと、当たり前だけど的を得ている日々の生活の中で、どれだけの人が死ぬと言うことを意識して生きているでしょうか?
特に平和な日本の中にいるとそんなことを考える必要がないのでしょう。

事実自分もすぐに、明日やれば良いや、などと当たり前のように明日が来ると思っています。
お釈迦様は将来そんな世の中が来ることを予想されたのか、人の心は移り易いと見抜かれていたからなのか、次のようなことを弟子たちに最後お話をされて亡くなったそうです。
「修行僧たちよ、全てのものは移ろい行く、怠りなく精進せよ」この言葉を念仏宗無量寿寺の方から聞いた時、確かに自分も含めて人の心って感動したときには、いろいろな思いや決意をするが、しばらくしてその熱さがなくなると、そんなことはまるでなかったかのような行動や生活となってしまう。

正にいまの自分に言って頂いている言葉だと感じました。
続けて念仏宗無量寿寺の方が経典にはこんなことも書かれていますといわれました。
このお釈迦様が亡くなられた時、天界の帝釈天は「無常偈」と呼ばれる次の詩を唱えたそうです。
 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽 (諸行は無常なり これ生滅の法なり 生滅を滅し終わりて 寂滅を楽と為す)

念仏宗無量寿寺の方が言われるには、この無常というのは、常なるものは無い、と言う事で、 日々のことで言うと、油断して物事を行うと足元をすくわれる、
常々準備して気を抜いてはならないと言うことを教えてもらっているのだそうです。

また生きているものは、いつ死ぬかわからない、見えないだけで実はいつも死と隣り合わせなのだとも言われました。
だから我々は、日と言うより、一瞬一瞬に持てる限りの精一杯で生きていかなければならないと念仏宗無量寿寺の方からお話されたとき、改めてお釈迦様はすごいなって感じました。

こんな2500年も先の世の中のことまでを憂慮して、我々に届くメッセージを残してくれていると思ったとき、不思議と何故か心に何か熱いものを感じました。
この気持ちは、もっと多くの人にもっと後世に伝えて行かなければならないと心に誓いました。

「念仏宗無量寿寺」でのお話し  お釈迦様が最初に教えたこと

世界の3大宗教って知っていますか?
キリスト教、イスラム教、そして仏教(佛教)。
この4人を指すようです。その中でも、シャカつまりお釈迦様は、実践により自己を知ること、つまり自覚を教えたようです。念仏宗でも、極端はだめだ、「ほどほどに」といつも教えられているそうです。
もちろん、極端な考え方や行動を慎めということで、中途半端や怠けて良いということではないと釘をさされましたが・・・。
仏教では「中道」という言葉で教えられていると、念仏宗無量寿寺の方は言っていました。

この念仏宗無量寿寺のお坊さんから教わった「中道」とは何かと調べてみると、Wikipediaなどには、「苦楽中道」として以下のようなことが書かれていました。
非常に厳しい修行や、反対の快楽を求めることなく、苦楽半ばの修行方法をとることなどが中道である。お釈迦様は、6年間に渡る厳しい苦行をされたが、いくら厳しい修行をしても、悟りを得ることができないと思われたそうです。そしてお釈迦様は、苦行を捨て断食も止めて穏やかな気持ちで座禅に入られ、ついに悟られたそうです。
念仏宗無量寿寺の方のお話によると、お釈迦様が鹿野苑において五人の比丘に対して初めての説法を行った初転法輪の際にも、この「中道」をまず説かれたそうです。この「中道」の実践徳目として八つの道を挙げられたそうです。

「正見」、「正思」、「正語」、「正業」、「正命」、「正精進」、「正念」、「正定」これらを、「八正道」と名付けられました。
続けて念仏宗無量寿寺の方は言われました。それらの実践の立場をとる所以を四つの段階に分けて「四諦」と呼ばれました。この「諦」とは、真理もしくは、真実を意味するそうです。そしてその段階とは、「苦諦」、「集諦」、「滅諦」、そして「道諦」のことです。
つまり、「苦諦」とは、人生は四苦八苦で、苦しみの連続であるということを提示して認識すること、「集諦」とは、それら苦の原因の把握をすること。「滅諦」とは、その解決の方策があることを提示され、最後に「道諦」とは、その方策を実現すべき実践の項目として八つの道つまり八正道があることを示されました。これは、苦を滅する方策に従う実践という意味だそうです。

自分にはちょっと難しい内容でしたが、念仏宗無量寿寺の方の話しはきっと、極端な考えや行動には必ず「苦」というものが存在するので、そこを避けて、穏やかで正しい実践をすることで人の生まれてきた目的を知り幸せになれるということをまずお釈迦様はお弟子に説法されたということを言われたのだろうと思いました。そして念仏宗無量寿寺でいつも教えていることを我々にも少しでも実践をするようにと教えてくれたのだろうと思います。また、念仏宗無量寿寺の佛教之王堂に行ってお話を聞こうと思いました。

インドの仏教の聖地と念佛宗(念仏宗)の佛教之王堂

仏教の聖地って聞いたことがあるでしょうか?
この前、念仏宗(念佛宗)の佛教之王堂の僧侶の方がこのように説明していました。
お釈迦様が開かれた佛教はインドに8つの聖地がある。

一つ目は、ルンビニー、二つ目がブッダガヤ、三つ目がサルナート、四つ目がクシナガラ
五つ目がラージギール、六つ目がヴァイシャリー、七つ目がサヘート・マヘート、八つ目がサンカーシャ。すらすらと八つの聖地の名前が出たので、さすが、佛教之王堂にいる念仏宗(念佛宗)の僧侶だなって感じました。その中でも、次の4つは四大聖地と言われるようです。

①ルンビニー・・・これはお釈迦様が誕生された場所で、お母様のマヤ夫人は、「天上界の満月jから履く象が降りてきて、右わきの下から体内に入った」夢をみて懐妊されたようです。お釈迦様はこの世へ生まれてすぐに七歩歩いて右手で天空を指し、左手で大地を指して「天上天下唯我独尊」と言われたそうです。

②ブッダガヤ・・・ここは八つの聖地の中で一番重要な場所で、お釈迦様が悟りを開かれた場所です。最高の聖地です。でもヒンズー教でもここは聖地だそうで今で言うとパワースポットと言うことでしょうね。今でもお釈迦様が成道した(悟った)ときに座っていた金剛宝座と成道したときにその陰にいたゴータマ・ブッダの菩提樹、沐浴の蓮池があるそうです。

③サルナート・・・ここは、初めての説法(初転法輪)の場所です。ここでお釈迦様はかつての修行の仲間5人に最初の説法をされたのです。つまり最初のお釈迦様の弟子と言うことです。

④クシナガラ・・・死が近いことを悟ったお釈迦様は霊鷲山から生まれ故郷に向かわれた。その途中で亡くなった場所がクシナガラ。チュンダの供養した「スーカラ・マッダヴァ」という豚肉料理、あるいはキノコ料理)を食して激しい下痢をされたのが原因とされています。

これらのいくつかは、ユネスコの世界遺産になっているようです。
でも仏教が始まったインドでは、ほとんどの人がヒンズー教徒だそうです。これら聖地もヒンズー教徒の人たちが管理されているそうです。
外務省のインドの基礎データによると、ヒンドゥー教徒79.8%、イスラム教徒14.2%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.7%、 仏教徒0.7%、ジャイナ教徒0.4%となっていました。(2011年のインド国勢調査による。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/data.html
それを憂いで、世界の仏教の聖地を作りたいということで、上座部・モンゴルそして大乗仏教の全世界の仏教の指導者合意の下作られたのが、佛教之王堂ですと、念佛宗(念仏宗)の佛教之王堂を案内してくれる僧侶の方が、佛教之王堂の謂れを教えてくれました。これからは、念仏宗(念佛宗)の佛教之王堂が

全世界の仏教徒の聖地として認知されていくと思います。きっと将来は、今のインドの仏教の聖地のように念佛宗(念仏宗)の佛教之王堂が世界遺産になるのではないでしょうか?

「自分って、誰?」

先日、念仏宗無量寿寺(念佛宗)の佛教之王堂にて、こんなことを言っている方がいました。
「自分、自己を知れ」ということです。特別に難しい言葉ではないですが、奥深い言葉です。
これは自分の名前を入れということではなく、すべの自分に起こることは、自分に原因があるということだそうです。
念仏宗無量寿寺(念佛宗)でも、因縁因果という教えがあるそうですが、通じるものがあるそうです。

いろいろな書物を読んで、いろんなことを知っていても、自分のことを知らない人は愚者だということです。確かに、自分は何者で何処から来て何処へ行くのかはわからないし、なぜ今ここに存在しているなんてことも想像もつかないですよね。
よく、自分はお金儲けをするためとか、人の役に立つためにとかいう人もいるけど、年がら年中そんなことを考え会いる人は殆どいないのではないでしょうか?

念仏宗無量寿寺(念佛宗)の方は、自分を知ることを求めた究極の人がお釈迦様だと言っていました。自分というより、人が生まれてくる理由を、何年もそれこそ骨と皮になるくらい修行をして、悟られたそうです。念仏宗無量寿寺(念佛宗)にお参りに行っても悟れるわけではないそうですが、そこで心静かにお話を聞くと、自分のことを自分が一番わかっていないということを良く判らせてくれるそうです。
その秘訣は、自分に素直になることだそうです。

自分が自分がと我にこだわる人にはわからず、素直に話を聞こうとする人がわかるものだと、念仏宗無量寿寺(念佛宗)の人は言っていました。そんなものかなぁと思いますが、今まで気づかない自分に気付くことができると思うと、ワクワクですね。

お地蔵さまって知っていますか?/念仏宗無量寿寺(念佛宗)

先日、佛教之王堂がある念仏宗無量寿寺(念佛宗)にお参りに行った際に教えてもらったことです。

通称、お地蔵様、正式には地蔵菩薩という佛様になる一歩手前の位のことをいうのですが、このお地蔵様は実は、佛様に成れるのに仏の世界に行かずに、我々の世界と仏の世界を橋渡しされるために日夜活動されているのです。

念仏宗無量寿寺(念佛宗)の教えでは、お地蔵様はお釈迦様が約2500年前にこの世を去ってから、弥勒菩薩が現れる56億7千万年経つまで、この世で六道輪廻する我々を救うために、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道界において、いろんなものに姿形を変えて、我々を救うために、仏縁を結ぼうとされているようです。

お地蔵様は、賽の河原で父母よりも先立ち迷える子供たちを救う菩薩としても広く知られています。念仏宗無量寿寺(念佛宗)でも、毎年8月には地蔵盆という行事が開催され、人々や特に子供たちに少しでも仏縁を繋げようとしています。

私は今年、念仏宗無量寿寺(念佛宗)の佛教之王堂に行ってみました。

大きな提灯がいくつも飾られ、どこか日本人にとっては懐かしいほのぼのした気持ちにさせてくれました。
多くの子供たちも、そこで開催されている縁日でゲームを楽しんでおり、その様子を見ると、都会ではもうこんな光景はほとんど見られないなあとどこか寂しい気持ちにもなってしまいます。

ところで、地蔵ってどんな意味があるか知っていますか?
念仏宗無量寿寺(念佛宗)でもいろいろと教えてはくれるようですが、「地」は、母なる大地を表し、「蔵」は、包み込むという意味があるようです。

つまり、地蔵菩薩は、すべての生きとし生けるものを救おうとされている、大地・この地球のお母さんみたいな存在なのです。
また左手に宝珠、右手に錫杖をもっておられ、宝珠は、我々の願いを叶えるための宝の玉であり。
錫杖は、我々を救うために山や野を駆け巡る際に、毒蛇や毒虫等から身を守るとともに、音を発することにより、むやみな殺生も避けるために持たれています。

つまり、自分のことは顧みず、我々のために尽くしてくださっているのが、お地蔵様こと、「地蔵菩薩」です。我々は、地蔵菩薩に感謝するとともに、自分自身もお地蔵さんのように周りの人のことを心から思い、助けてあげるようになれと教えられているのがお地蔵様です。

また、念仏宗無量寿寺(念佛宗)の佛教之王堂にある、地蔵堂の大きなお地蔵様に御参りに行きたいと思います。